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第7回 武田家の繁栄と滅亡をめぐる旅 (21年10月2-3日)           ⛰今回の山城:上原城(長野県)、谷戸城・新府城・要害城(山梨県)

更新日:2023年10月21日

コロナ禍に入って延期となった歴史を巡るオヤジ旅をいよいよ1年ぶりに再会。

今回の行き先は、戦国時代最大の悲劇の一つ、武田一族滅亡の軌跡を追う旅。

戦国大名最強と謳われた信玄急死の後の勝頼自害までの道を辿った。




1日目

まずは、武田軍要害の地、長野は諏訪の城主諏訪氏の古城高島城と上原城を訪れる。

上原城築城の年代は定かでないが、室町後期・文正元年(1466年)ごろと言われ、

諏訪氏5代70年に渡り統治されたが、天文11年(1542年)の信玄(当時武田晴信)の攻防により諏訪氏は滅亡した。上原城は当時そのままの形で主郭、土塁、二の郭、三の郭、曲輪、空堀、物見石などがそのまま残る素晴らしい山城だった。その後武田軍は滅亡までの40年間この城を信濃攻略の拠点として活用し続けた。


その後、もう一つの山城 谷城を訪れる。今ではすっかり公園のような場所になっているが、郭や空堀、土塁がそのまま残っていてとても趣のある場所だった。



2日目


翌日、朝から甲府城を訪ねる。ここは全く武田氏とはゆかりはなく、武田氏滅亡に豊臣政権によって建てられた。ここはサラッと通り抜け、武田家を祀る武田神社を訪問。ここは信玄の父、信虎の住む館として永正16年(1519年)に建てられ、信玄、勝頼共にここで育っている。神社の周辺を歩いてみるととても面白く、館の周辺が土塁や石垣、堀などで囲まれている様子が当時そのままに面影を残していた。


神社から少し離れたところに信玄の墓があり手を合わせた。正確には墓ではなく墓碑で、実際に骨が埋葬されているかは定かではない。元亀4年(1573年)信玄はその死を3年間秘密にするよう一族に遺言を残しており、跡を継いだ勝頼家はその名を守り、この場所に埋葬したと伝えられる。骨があるかどうかは定かでなく、実際長野の他にも7つの寺に墓所が存在するが、今でもこの地が御墓所であるとして、この住民はここをここを信玄公の墓として敬愛し、憩いの場所となっている。




その後、信玄堤や聖牛と呼ばれる洪水を防ぐ設備の遺跡を見たのち、武田家にとっての最後の城である新府城を訪れた。新府城は、正式には新府中韮崎城と言い、勝頼が織田軍の攻勢に備え築かせた平城である。完成後の天正9年(1581年)12月に入城するも、日毎に悪化する戦局から翌年2月この城に火を放ちこの地を去る。わずか68日間のみの居城でった。今でも本丸、二の丸、堀や曲輪が現存しており、勝頼の無念さが伺え、とても悲しい場所であった。本丸の広場の片隅に長篠の戦役の戦没者のひが寂しげに佇んでいた。


そして最後、天童山景徳院へ。勝頼夫妻とその嫡男の自害の地である。新府城を出た勝頼はこの地まで敗戦を続けながらも逃げ落ち、最後に妻と共にこの地で生涯を閉じた。新府城をでる際に5−600人いた家来もこの地にたどり着いた時は4−50人だったという。寺の裏側に勝頼、妻、そして嫡男信勝の生害石(その上で自害をした場所)があった。それぞれの場所が木枠で囲われ杉の木が植えられ、今でも丁寧に祀られていた。この地の人々がその後この地を収めた徳川などよりも武田家を慕い、敬愛していることに、唯一の安らぎを感じられたとても悲しく寂しい場所だった。


その後、この地にあったもう一つの山城の要害山城をおとづれた。ほとんど険しい山道でしかないものの幾つかの山城の名残がありとても趣のある場所だった。


今回の武田盛衰の旅は、とても切なく悲しい旅路であったが、一方で甲府の人々の武田信玄、勝頼親子への深い親しみと尊敬に触れることができるとても趣深い旅だった。途中見た信玄堤や聖牛は、土木と治水に長けた武田一族が氾濫を繰り返す川の流れを堰き止め、この地に富を築かせた跡を残してくれている。こうしたことが今でも甲府の人の尊敬を集めている背景にあるのだろうということを確信できる、とても良い旅だった。





今回の宿泊場所

 1日目(松本市)

 2日目(甲府市)

おすすめグルメ

  そば








 
 
 

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