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第9回 南朝の里を巡り楠木正成の志を偲ぶ旅(22年11月11月18−20日)     ⛰今回の山城:千早城・上赤阪城・下赤阪城(大阪府)

更新日:2023年10月21日


紅葉も終わりかけた11月、コロナ禍への国民の反応も萎え始める中、我々歴史仲間共通の関心どころ南朝の里をめぐる旅がいよいよスタート!


冬も早くも11月というのにとても暖かく快晴の中、まず向かったのは、京都駅。ここでレンタカーを借り、一路四條畷市に向かう。そして着いたのが、今回の主役、楠木正成の嫡男 正行を祀った四條畷神社。正成が大楠公として敬服を受けている中、正成は小楠公としてこの地の人に慕われている。

正平3年(北朝としては貞和4年)の1348年、すでに時代は室町時代に入っており、幕府軍であり北朝側である幕府の執事・高師直と、湊川の戦いですでに父 正成を失った正行が激突とした四條畷の戦いの舞台がこの地である。激しい戦いの後、正行、正時兄弟は自害している。正行はまだ齢22歳であった。神社に入ると、右側に父 正成から天皇を守る使命を受けた正成・正行父子の「桜井の別れ」の像があり、左側には正行と久子母子の象がある。まだ幼く屈託の無い正行の面持ちが切なく、いじらしい。奥の本殿に入ると天皇家の菊の紋が目に飛び込んでくる。天皇家に刃向かった武士をご祭神に菊の紋で祀った明治政府に強い思いと意思を感じる。敷地内には多くの楠木が植えられており、その内の一つからは強いパワーがみなぎっているのが感じられた。


その後、せっかく河内の地に来たので、東大阪にある我が人生の師、司馬遼太郎先生の記念館、兼自宅のある場所を訪れた。入り口にはボランティアでお手伝いをしている地元の高校生だろう女の子が出迎えてくれた。何種類もの植木や植物に囲まれた庭を抜けると、何度もテレビや雑誌で見た書斎が窓越しに広がっていた。奥には、生涯を通じて遺したすべての著作と関連書物をオブジェのように飾った記念館が広がっていた。あの安藤忠雄のデザイン建築のようだ。館内の運営はほとんで中年の女性たちで、これも地元のボランティアっぽかった。いつまでもゆっくり居たくなる空間だったが、時間がなく、次の地へ向かった。



続いて次に向かったのが、奈良を超えて和歌山の入り口にある九度山 善名称院。別名 真田庵とも呼ばれ、真田昌幸・信繁(のちの幸村)父子が1600年の関ヶ原での西軍に属しての敗戦を責められ蟄居させられていた住居の跡に後の1741年に建てられたお寺。到着した時はすでに日も暮れ入館時間を過ぎていたが、運よく門を閉め忘れていて建物だけは見ることができた。これも先ほどの楠木パワーか?少し歩くと、伝説の真田の抜け穴があった。この穴と善名称院がつながっていて出入りしていた、という噂やここから大阪城までつながっている?という噂があり真田フアンを夢中にしているが、実は4世紀に作られた古墳の横穴式石室である、ということで、地元では真田古墳として親しまれているようだ。 1日目はこれで旅程を終え、再び大阪に戻った。




翌日は朝から移動し、いよいよ今回の主目的の一つ、南北朝時代最も有名な山城であり、楠木正成が鎌倉幕府側の北条軍を翻弄した難攻不落の千早城址へと向かう。千早城、別名 金剛山城とも言われ、元弘2年(1332年)築城。楠木七城の一つ。この年、楠木正成は後醍醐天皇を擁し、鎌倉幕府に抗して挙兵。「太平記」によると北条軍数百万騎に対し楠木側はわずか千機だったというが、山城の地の利を活かし100日間の籠城を耐え抜いた、とある。標高673m、3方を山で囲まれ、もう一方も尾根沿いに山へと通じた天然の要害と言われている。入り口には、いきなり560段の石段が我々を出迎えてくれた。登ってみるとかなり膝が笑う。当時は石段もあるわけがなく、これを攻め抜くのは相当の難儀であったろうと、当時に思いを馳せた。ようやく頂上に登ると、本丸のある地に千早神社が出迎えてくれた。正成をご祭神に、正行、久子婦人を合祀しているのはまたしても明治政府である。本殿の後ろが少し小高くなっていて「神聖な場所です」との立札で立ち入りを禁じていた。




千早城を出て、いよいよ今回のメイン、吉野へ向かう。吉野川のほとりの小道を延々と進み、山道を登ると、ようやくそこに吉野神宮が現れた。ご祭神は南朝の祖 後醍醐天皇である。その経緯は次の通り。後醍醐天皇の子 後村上天皇が父の崩御後にその像を近く吉水神社で安置していたが、それから500年以上経った1889年(明治22年)、これもやはり明治天皇の強い指示により、この神社に象を移し。この神宮を正統な南朝を祀る正式な神宮となった。本殿、拝殿、神門はすべて京都の方角を向いている。後醍醐天皇の遺志を継いでいる、という。


その後に向かったのは、賀名生(あのう)の里。延元元年(1336年)、足利尊氏によって京を追われた後醍醐天皇は吉野に潜伏後、この地に辿り着いている。当時の呼び名は穴生(あなう)。しかしその後の正平6年(1351年)に尊氏が幕府内で勢力を失った際に南朝に帰順した折に京から多くの公卿や殿上人が訪れ、一時はこの地が正統となった。「ようやく願いが叶った」と後村上天皇が喜ばれた際に「加名生(かなう)」と名付けられ、その後に現在の文字になったという。その後、南朝は勢力を失いこの地は廃墟となっていくが、南朝ゆかりの地として、幕末などは天誅組などがここを拠点としている。


こうして思うと、吉野という地には何かこの国の歴史の重要な局面を担う土地であると、あらためて痛感してしまう。時を遡れば、初代神武天皇が大和入りした際の拠点も吉野であり、飛鳥時代、天智天皇の弟 大海人皇子(後の天武天皇)が壬申の乱で兵を起こすまで潜伏したのもこの吉野である。後にあの源義経が兄頼朝の追捕を逃れて、静御前、弁慶などを伴って身を隠したのもここ吉野である。後醍醐天皇が、南朝を起こす際にこの地を選んだのもきっとこうした過去の歴史が関係するのは明白であるとの思いをこの地を訪れて痛感する自分がいた。





まだ日暮れまで時間があるので、もう一つの山城 赤阪城へ。赤坂城には、1332年、正成が挙兵後最初に幕府軍と戦った急ごしらえの下赤坂城と、その翌年に正成が再度攻勢をかけるべく正式に構えた上赤坂城の二つがある。上赤坂城へ。別名、楠木城とも言うべくまさに難攻不落の作りで、ほぼ城でなく登山道、しかも獣道とも言うべき作りだ。おそらく今まで見た山城の中でも最高峰とおもわれる。今でも曲輪や空堀跡と見られる遺構は残っており、左右を高い土塁に囲まれた横堀は上から敵に見下ろされている恐怖感を当時そのままに感じさせてくれる。ここで幕府軍を悩ませた後、先に行った千早城で100日の籠城戦により幕府軍の多くを壊滅させるに至っている。


今は中学校の校庭になった下赤坂城を訪れた頃、辺りはすっかり暗くなってきた。帰り道、運よく正成の生誕の地、と言う道の駅に立ち寄る。「至誠一貫」の文字と共に正成生誕の地の碑がある。かつて皇太子も訪れているようだ。すぐ横に公民館があり、ちょうどこの週末は楠木正成を偲ぶ講演会が連日行われているようだった。土曜日の夕方ともあって、地元のボランティアの人々や家族連れが談笑をしていた。今でも正成の面影を大切に守っているこの地の人々の思いが伝わる千早赤坂の日暮れだった。






翌日は、最終日。せっかくここまで天皇の歴史を追いかけた、ということで、最後は京都は伏見まで移動し、明治天皇御陵を訪問した。すぐ横に隣接しているのは伏見桃山城。完全にレプリカであり風情は全くなかったが、地元の人々がスポーツなどを楽しむ憩いの場所になっていた。そこの駐車場に車を停め、歩いて御陵に向かう。意図せずして、すぐ横が平安京を開いたとされる桓武天皇の御陵だった。ひっそりと佇む社と古墳が趣深い。続いて。、長い参道を経て明治天皇の墓を参る。それにしても、なぜ明治維新を経て東京で生涯を送った明治天皇の墓がここ京都 伏見にあるのか?ちなみに大正天皇以降の墓地は東京の八王子にある。理由としては、「生まれ故郷で安らかに眠りたい」との生前からの遺言であったから、とのことだが、本当か?明らかに東京の皇居よりも威厳が高く、その古墳の大きさも他を圧倒するものであった。まさに今回の旅行を締めくくるにふさわしい場所であった。


その後、伏見稲荷に少しだけ立ち寄り京都駅へと向かい、旅行を終えた。

南朝の里と楠木正成の思いを巡り、京都、大阪、奈良、和歌山を駆け巡った、とても趣深い二泊三日の旅だった。




宿泊先 1日目(大阪・八尾市) ターミナルホテル八尾

    2日目(奈良・柏原市)  東横イン王寺駅北口


おすすめグルメ (詳しくは「お薦めグルメ」コーナーで!)

  大阪府大東市 「竹なか」うどん・お好み焼き・・うどんもお好み焼も両方うまい!


  大阪府八尾市 「後楽苑」焼肉・・・ホルモンが最高!特にテッチャンと赤セン。




  奈良県吉野郡 「更 科」うどん・・・おすすめは、玉子がトロッとした親子丼!








 
 
 

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